復讐の連鎖に楔を打つ愛を描くミュージカル『二都物語』

復讐の連鎖に楔を打つ愛を描くミュージカル『二都物語』

フランス大革命前後の時代を背景に、憎しみの連鎖に立ち向かう愛が、イギリスのロンドンとフランスのパリで繰り広げられる壮大な物語を描くミュージカル『二都物語』が、東京・明治座での5月7日~31日の公演を大盛況のうちに終え、三都での上演に向けた旅路に向かっている(6月7日~12日大阪・梅田芸術劇場メインホール、6月21日~29日愛知・御園座、7月5日~13日福岡・博多座で上演)。

ミュージカル『二都物語』は、全世界での発行部数が2億冊を超える文豪チャールズ・ディケンズの不朽の同名小説を原作として、2007年アメリカで生まれ翌年ブロードウェイに進出したミュージカル。2012年には韓国でも上演され、賞賛を浴びた。
そんな作品が日本で初上演されたのは2013年。帝国劇場での初演はミュージカル界のプリンス井上芳雄浦井健治を共に擁した上演として大きな話題を集めた。そこから十二支をひと回りした2025年待望の再演の幕が開き、井上、浦井をはじめ初演以来の豪華キャストに、潤花福井晶一未来優希らの新キャストを迎え、初演と同じ鵜山仁の演出による、深い人間ドラマが展開されている。

【STORY】
18世紀後半、イギリスに住むルーシー・マネット(潤花)は、17年間バスティーユに投獄されていた父ドクター・マネット(福井晶一)が居酒屋を営むドファルジュ夫妻(橋本さとし、未来優希)に保護されていると知り、フランス・パリへ向かう。死んだと聞かされていた父との再会を果たしたルーシーは親子で暮らす為、ドクター・マネットの財産管理人であるテルソン銀行のジャービス・ロリー(原康義)、用心棒のジェリー・クランチャー(宮川浩)、ルーシーの乳母ミス・プロス(塩田朋子)と共にロンドンに戻る。
帰途の船中、一行はフランスの亡命貴族チャールズ・ダーニー(浦井健治)に出会う。彼は叔父のエヴレモンド侯爵(岡幸二郎)の平民たちへの横暴に反発し、貴族としての全ての権利を捨てイギリスに渡ってきたのだ。だが彼は、叔父の指示を受けたバーサッド(福井貴一)により、スパイの濡れ衣を着せられ裁判にかけられてしまう。
その危機を救ったのは、同僚のストライバー(原慎一郎)と共にロンドンで事務所を開いている酒浸りの弁護士シドニー・カートン(井上芳雄)だった。このことをきっかけに、不思議な縁で結ばれていく三人だったが、ダーニーとルーシーは結婚を誓い合う仲になる。自らをろくでなしだと見なしていたカートンも密かにルーシーを愛し、遂に献身を誓うが、二人の婚約を知り祝福と共に身を引く。結婚したダーニーとルーシーの間にはリトルルーシーが生まれ、カートンも家族のように接する穏やかな暮らしが続くかに見えたが、遂に勃発したフランス大革命の嵐のなかダーニーは、エヴレモンド侯爵家の使用人ガベル(横沢健司)が命の危険にさらされていることを知り、彼を救うべく単身フランスに帰国。だが蜂起した民衆たちにダーニー自身も捕えられてしまう。
ダーニーを救おうと、ルーシー一行とカートンはパリへと急行するが、因果のごとくめぐり来た再びの裁判の場で、驚くべき過去からの怨念が判明し、ダーニーは死刑を宣告される。ダーニーとルーシー、そしてリトルルーシーの幸せを願うカートンはある決心をし、ダーニーが捕えられている牢獄へと向かうが……

新たに美術を担った松井るみによる、ロンドンを示す赤い幕とパリを示す青い幕が目に飛び込んでくる幕開きから繰り広げられる舞台は、フランス大革命がもたらした壮絶な復讐劇とも呼べる顛末を鋭く客席に突き付けてくる。ちょうどたったひと月前に、この明治座ではフランス大革命が採択した「人権宣言」、すべての人民は法の下に平等であり、平等に保護されると高らかに謳いあげた『1789-バスティーユの恋人たち-』が上演されていただけに、そのフランスがのちにたどった道程を、こうして改めて目にする落差には、心ふさがれるものが大きい。ここには階級社会のなかで虐げられてきた平民たちが、大革命によって貴族はもちろんのこと、彼らに仕えていたというだけの理由で、同じ平民までをも次々にギロチン台へと送りこむ様が描かれている。

そんな狂乱のなかでは真に領民を人として扱っていなかったエヴレモンド侯爵も、その叔父の行動を嫌悪し、貴族としての全ての権利を放棄して領民に還元していたダーニーも、全く同じ「貴族」という一括りのなかで、唾棄すべき敵としか見なされない。法の下の平等、身分や生まれによって差別を受けず、全ての人民が自由な権利を有しているという高潔な精神は、ただ立場が逆転しただけの復讐へと姿を変えていく。しかも彼らはこの革命を「何も変わらない」と諦観ではなく揶揄さえしていくのだ。この復讐の連鎖、恨みが恨みを呼び、とどまることのない殺戮へと堕ちていく様は、思えばいま現在も世界で続いている戦闘はもちろん、自国の繁栄を旗頭にした経済による戦いや、搾取、暗闘へとつながっている。そう気づいた時、同じ時代に生きていて、なすすべを持たない自分も含めた、人類とはなんと愚かなのかと暗澹とする思いだけが広がっていく。

だがそうした歴史背景のなかで、文豪ディケンズによって創作された人物たちが編んでいくこの作品の示す究極の愛が、そんな深い闇のなかに光を差し込む様は、だからこそあまりにも美しい。もちろんここにはミュージカル『レ・ミゼラブル』が登場人物の死をひと際明るいスポットライトで示し、終幕主の国で武器を捨てた人たちが等しく救われている様に象徴される、死はすなわち無ではなく、魂が神の国に迎えられる、より良い世界に行き着けるという信仰が根本にあることは間違いない。それでも例え宗教観は異なったとしても、ここで描かれる復讐の連鎖を愛が断ち切る様には、人の心の奥に届く清らかなもの、魂の浄化とも呼びたい力がある。

それは、この作品が端的に言っていま登場人物が何を考え、何を思い、何を願っているのかを明確に歌にのせて訴えることのできる、ミュージカルの利点を十二分に活かしながら、交わし合う視線、短い言葉、相対している時と視線を逸らした時の表情変化等々の、台詞劇と全く変わらない緻密な芝居を展開する、二つの演劇形態の融合によってもたらされたものだった。これほどミュージカルと台詞劇が完全に地続きになっている作品を観ることはさほど多くない。そこには今回の12年ぶりの日本再演に際し、2曲の新曲を書き下ろした脚本・作詞・作曲のジル・サントリエロの作品に対する真摯な愛情を、日本を代表する劇団のひとつ文学座に所属し、近年は台詞劇を中心に演出活動を続けている鵜山仁の演出が丁寧にすくいあげ、芝居として深化させた故の結実がある。特に鵜山が「ミュージカル」というジャンルをこの年月で一層強く信じてくれたんだなという実感が、ある種の説明を廃したり、実存と幻影の共存の距離を縮めるなどの演出変更からも垣間見えていて、こうした融合が可能になった様を改めて観るにつけ、鵜山には今後も是非ミュージカル作品を手掛けてもらいたいと願う。更に12年の時を経て同じ役柄に向き合うキャスト陣と、新たに加わったキャストたちが、決して初演との比較ではなく「いま」の自分として役に生きている様が、作品の厚みを加えている。

その筆頭、シドニー・カートンの井上芳雄は、この作品に接した誰もが井上を信奉するようになるのでは、と思わせる圧巻の存在として舞台に屹立している。おそらくは愛されているという実感を持てずに育ち、世の中にも自分自身にも絶望し、ただ酒に酔うことで逆説的に正気を保っていたカートンが、ルーシーとの出会いによって変わっていく様が、手に取るように伝わる繊細な演技に引き付けられる。頭上に広がっていた星空の美しさに、愛によって目を開かれる「この星空」の希望に満ちた歌声も、その想いがたった1日で砕かれたあとも、愛する人とその家族の幸せを願いながら歩み続けるカートンの魂が、日増しに清心なものになっていく過程が美しい。

特に良いのがそんなカートンの崇高な愛が、折に触れて人間らしく揺れることだ。ダーニーに起きた悲劇を回避しようと奔走しながらも、ふとダーニーが去った世界に自分が残ることが頭をよぎる瞬間もあることを感じさせるからこそ、『二都物語』という作品の著名な結末が絵空事にならない。再演の演出変更で最も目に立つ、ルーシーから「自分を大切にして」と贈られたスカーフの行方が異なることを自然に見せたのもその人間らしさ故で、これはひとかけらの救いにもつながっている。

思えば2月に休館した帝国劇場ファイナル公演『THE BEST』で、二代目帝国劇場の歴史を刻んできた名だたるGUEST STARたちを迎えた日々のなか、最後の幕を下ろす時間に舞台のセンターに立ったのが必ず井上だったこと。確実にひとつの時代から次の時代へのバトンが井上の手に委ねられたことを明確に示したあの瞬間に納得がいく、当代のミュージカルキング・井上芳雄の唯一無二の主演作として『二都物語』は上演を重ねるべきだ。そんな思いを強くする主演ぶりであり、シドニー・カートンだった。

その井上カートンと並び立つ必要があるチャールズ・ダーニーの浦井健治は、どちらかと言うと行動の全てが裏目に出る、自ら窮地に陥り常に助けられる側にいる難しい役どころを、長いものには巻かれることのできない、若者らしい正義感の発露として描き出している。中でも自ら起こしたことではなく出自による、ダーニーにとっては原罪とも言えるものを受け入れた、潔いが故の無念を表出しつつ、見事にカートンと対峙した様に圧倒される。

浦井が再びダーニーを演じるにあたって、ルーシーへの想いと悔恨を歌う「もう一度だけ」のソロが追加されるなどの配慮もあるものの、ミュージカルからシェイクスピア作品まで多くの主演作品を持つ浦井がいま演じるには、或いはしどころが少ない役とも言えるかもしれない。だが、だからこそ自らの正義に前のめりになるダーニーを、スッキリと絞った体躯や、微かに首が前に出る姿勢で見事に表している浦井の演技の充実には目を瞠るものがある。

分けてもこれは従前から感じていることだが、浦井健治という俳優には、井上芳雄の隣にいる時にだけ見せるどこかふんわりとした顔がある。それは時代を切り拓くトップランナーである井上への敬意と絶大な信頼を隠さないが故の、自己の役割分担への心配りが自然に醸し出すものでもあるだろうし、決して我も我もにならないからこそのある意味の余裕が、結果として井上と浦井の共演に宿る贅沢感につながっていて尊い。作品にとって得難い存在だったし、二人が瓜二つだという原作設定を強調せず、魂のレベルで共通項のある関係性に落とし込んだのもリアルだ。

そんな二人の男性から愛されるルーシー・マネットの潤花は、こちらも非常に難しい役柄に、持ち前の美貌とひたむきな芝居、舞台に出た瞬間に辺りを照らすような天性の明るさで説得力を持たせたのが素晴らしい。何よりも作品のなかでの描写は決して多くはないが、長年の拘禁生活で心身が不安定な、しかもずっと亡くなったと思い込んでいた父親との新たな暮らしを育むなかで、ダーニーに寄せていったのだろう信頼や愛情と、カートンに感じている親愛とが全く別のものだと伝わるのは大きな美点。これがあるから、自分が贈ったスカーフを肌身離さず着け続けている、夫ではない男性の好意に縋る様が決して立ち回りの上手さには見えず、誰もが幸せを願い守るべきヒロイン像を成立させた姿に拍手を贈りたい。

作品が描く「復讐」を体現する存在であるマダム・ドファルジュの未来優希は、その怨念が狂気へと堕ちている感覚が希薄で、怒りのマグマのなかに常に冷静なものが見えることが、この再演の民衆の怖さを倍増させる鍵になっている。夫への依存も薄く、自ら臨む復讐が狂信でなく理性的であることが、ここまでの恐怖を生むのかには戦慄させられる。裏ヒロインとしても創れる役柄だと思うが、そうではなく大革命後の「恐怖政治」を強烈に想起させる存在に仕上げたのが、パワフルな歌声と共に未来ならではのマダム・ドファルジュになった。

エヴレモンド侯爵の岡幸二郎は、すっと伸ばした立ち姿で生まれながらの貴族の気品と、爵位を持たない人間を人とは思っていない、民衆側が恨みを募らせた貴族社会そのものを象徴する傲岸不遜な態度とを両立させ、清々しいまでのヒールを演じきった。ダーニーにとって最も大きな障害となる人物を、印象深く舞台に刻んでいる。

その侯爵に仕えながら、時代の激変のなかでもしぶとく生き続けるバーサッドの福井貴一は、そうしたぬかりない人物のなかに、ちょっとした読みの甘さ、自分とは全く異なる発想をする人間がいることに想いが至らない想像力の希薄さを巧みに表出して、展開のキーを握っている役柄にただ狡猾なだけではない可笑しみを加えていて深い。

ルーシー一家の用心棒を務めるジェリー・クランチャーの宮川浩は、元々恵まれた体躯の持ち主だが、それを更に大男に見せる創りこみや、野太い台詞発声で役柄をよく表現しつつ、カートンがポケットに入れ続けていたスキットルを渡され「僕はもういらない」と言われた仰天もきちんと後につなげている。岡、福井貴一も同様だが、二枚目役を多く経験してきた俳優が、年輪を重ねてこうした個性ある役どころを的確に、しかも彩を持って演じている様が頼もしい。

ドファルジュの橋本さとしは、妻であるマダム・ドファルジュの在り方が初演とは変わったことで、革命がもたらす未来を信じて耐えに耐えていたものが噴出するまでと、この復讐をどこかで止めなければならないという使命を抱えていく後半の心持ちの変化がより鮮明になった。橋本ドファルジュとしての根幹は変わっていないと思わせるからこそ、照射されるものが違って見える演劇の醍醐味を感じさせてくれているし、橋本がドファルジュを再び演じていることが、『二都物語』再演をより贅沢なものにした功労者でもあった。

ルーシーの父ドクター・マネットの福井晶一は、見てはならないものを見たが故に17年間バスティーユ監獄に拘束された為に陥った心神耗弱状態に、トラウマがフラッシュバックすることで引き戻されるのでは?という恐怖以上に、自分の恨みが娘一家にもたらした悲劇に対する悔いが前に出る役創り。これは家族の物語であり、憎しみの連鎖をどう断ち切っていくのかが深淵なものを残す作品のテーマに相応しい在り様で、長く『レ・ミゼラブル』の顔であり続けた福井晶一がこの役柄に扮した意味を感じさせるし、新曲の歌いあげも見事だった。

こうしたある程度年輪を必要とする役柄がこれだけ豊富なミュージカルもあまり多くないし、鵜山演出が彼らひとり一人を実に自然に作品のなかで立たせているのも大きな利点な上、同じ文学座からドクター・マネットの財産管理人のジャービス・ロリーを原康義が、ルーシーの乳母ミス・プロスを塩田朋子が演じていることも作品の滋味深さを支えている。あくまでもルーシーの味方であり、一家を守ろうとする二人がそれぞれの人物像に実存感を持たせていて、台詞の余白、視線の端々にも人柄がにじみ出る好演が光った。

カートンの同僚弁護士ストライバーの原慎一郎は、ルーシーに夢中なもう1人の男を、あくまでも軽やかに演じていて、二役で演じる役柄の冷酷さとの対比も良い。革命が狂気に変わっていく悲劇が、市民たちを如何に追い詰めたかを表したお針子クローダンの北川理恵は、終幕のカートンとの二人芝居を実に印象的に見せているし、エヴレモンド侯爵家の使用人ガベルの横沢健司も、自分の立場で出来る精一杯で市民たちを守ろうとしていた姿が、ダーニーが危険を承知で彼を助けようとする行動にシンパシーを与える存在になった。

更にこの作品のなかで革命に最後の火をつける役柄とも言えるガスパールの丸山泰右が、息子への深い愛情故に憎悪の縁に堕ちていく様を的確に表現していて、北川、横沢と共にもっと大きなクレジットで良いのにと思わせる存在になっている。

また、憎しみの連鎖の出発点、つまりは『二都物語』という作品が動き出す出発点でもある若い二人を演じた荒田至法石原絵理をはじめ、奥山寛、河野顕斗、後藤晋彦、砂塚健斗、田中秀哉、常住富大、福永悠二、山名孝幸、彩花まり、岩﨑亜希子、音道あいり、樺島麻美、島田彩、原広実、玲実くれあと、大作ミュージカル常連のメンバーが多いアンサンブル陣が革命の狂気に踊る民衆の恐ろしさをそれぞれに体現。その1人であり劇中劇のルイ16世役などが印象的だった榎本成志の体調不良による降板は残念で、1日も早い快癒を願っている。

子役陣では、ガスパールを溌剌と演じて悲劇を加速させた張浩一松坂岳樹。子供時代のルーシーやリトルルーシーなどを演じ分けた大村つばき高木郁。子供時代のルーシー他の齋藤菜夏、そして衣裳や鬘が抜群に似合い、この幼子が「いまは子供のままで」いられなくなった時に、子供だったからこそ口にできた言葉が重い十字架になりませんように、と祈らずにはいられなかったほど愛らしい演じぶりを見せたリトルルーシーひと役の若杉葉奈も充実。総じて、ミュージカルと台詞劇の魅力の融合がもたらした深遠な愛の物語である『二都物語』が、三都をめぐる旅路のなかで更に多くの人の記憶に残ることを願っている。

取材・文・撮影/橘涼香

★カーテンコールより

公演情報

ミュージカル『二都物語』

脚本・作詞・作曲◇ジル・サントリエロ
追加音楽◇フランク・ワイルドホーン
原作◇チャールズ・ディケンズ
翻訳・演出◇鵜山仁

出演◇
シドニー・カートン:井上芳雄
チャールズ・ダーニー:浦井健治
ルーシー・マネット:潤花
マダム・ドファルジュ:未来優希
エヴレモンド侯爵:岡幸二郎
バーサッド:福井貴一
ジェリー・クランチャー:宮川浩
ドファルジュ:橋本さとし
ドクター・マネット:福井晶一
ジャービス・ロリー:原康義
ミス・プロス:塩田朋子
弁護士ストライバー:原慎一郎

荒田至法 / 奥山寛 / 河野顕斗 / 後藤晋彦 / 砂塚健斗 / 田中秀哉 / 常住富大 / 福永悠二 / 丸山泰右 / 山名孝幸 / 横沢健司 / 彩花まり / 石原絵理 / 岩﨑亜希子 / 音道あいり / 樺島麻美 / 北川理恵 / 島田彩 / 原広実 / 玲実くれあ
大村つばき / 齋藤菜夏 / 高木郁 / 若杉葉奈
張 浩一/松坂岳樹

5月7日~31日◎東京・明治座(※公演終了)
6月7日~12日◎大阪・梅田芸術劇場メインホール
6月21日~29日◎愛知・御園座
7月5日~13日◎福岡・博多座

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