【公演レポート】劇団時間制作『12人の淋しい親たち』

【公演レポート】劇団時間制作『12人の淋しい親たち』

「人間が見て見ぬふりをしている現実、感情と向き合う時間を制作する劇団」を旗頭に、主宰の谷碧仁脚本・演出による良質で鋭い台詞劇を生み出し続けている劇団時間制作の、第二十五回本公演『12人の淋しい親たち』が、池袋の東京芸術劇場シアターウエストで上演中だ(10月2日まで)。

STORY

近い将来、請求陪審制が実験的に日本で行われていた。そこへ集められた10人の親である陪審員が「3歳男児殺害事件」について話し合う。

各々のエゴは、小さな疑問を産み出し、大きな可能性に変化し、そしていつしか譲れない主張へと姿を変える。その主張は果たして正しいのか、間違っているのか、憶測か妄想か。

「他人事」であった事件は、いつしか「自分事」へ。

年齢も性別も環境も価値観も違う親たちの摩擦が織りなす圧倒的現代劇。

舞台は、現代から近い将来。請求陪審制が実験的に行われている日本で、「3歳男児殺害事件」の審理に携わっている陪審員が、被告である若い母親の「有罪」か「無罪」か、の評決を行う一室を中心に進んでいく。

と書けば、いや、書かなくてもタイトルからこの作品が、1957年にアメリカで公開されたヘンリー・フォンダ主演の映画版が広く知られている、レジナルド・ローズによる法廷劇の傑作『12人の怒れる男』からインスピレーションを得ていることがわかるだろう。

「有罪」としか思えなかった事件の評決にあたった12人の陪審員が、たった1人が唱えた異議を発端として、確かだと思っていた物事に疑問が生まれ、気持ちが揺らぎ、それぞれの立場で見え方、捉え方が異なっていく。
そんな「真実」の不確かさが、冷房設備のない夏の一室で激論を交わす12人の描写のみで展開されたこの作品は、“社会心理学”の教材として用いられることも多く、日本でもこれまでに筒井康隆の『12人の浮かれる男』や、三谷幸喜の『12人の優しい日本人』などの、著名な派生作品が生まれている。

今回の谷碧仁脚本・演出による『12人の淋しい親たち』も、開幕からしばらくは『12人の怒れる男』の設定を、オマージュを込めて丁寧に踏襲している。

現在日本で行われている、満18歳以上の国民から事件ごとに無作為に選ばれた裁判員が、裁判官とともに審理に参加する「裁判員裁判」とは異なり、一般市民から無作為で選ばれた陪審員が、刑事事件や民事事件の審理に立ち会った後、陪審員のみで評議を行い、最終的な評決を下す。そこに司法の専門家の意見は加味されず、陪審員が被告の人生の謂わば決定権を握っているのが「陪審制」だ。

にもかかわらず、陪審員たちにさほどの緊張感はない。むしろエアコンが故障していて扇風機が回るだけの蒸し暑い一室から早く解放されたいし、これも原典と同じく、ナイターの野球観戦をする予定があるから、それまでには終わらせたいと堂々と言う者もいる。なぜなら3歳の我が子に食事も満足に与えないまま、殺害に至った若い母親に、情状酌量の余地はおろか「無罪」である可能性などみじんもないとほぼ全員が思っていたからだ。

けれども、1人がその空気に異を唱える。1人の女性の人生にそこまで簡単に断を下していいのか、本当に母親だけが罪人なのか?せめて証言や、証拠についてもう少し話し合わないか?

ここから少しずつ、舞台は谷碧仁脚本・演出が迫る、現代日本の問題へ滑らかに切り込みはじめる。

大きく異なるのは『12人の淋しい親たち』が12人の陪審員ではなく、10人の陪審員と、被告である若い母親、そして単身赴任中で家を留守にしていた父親の2人を含めた計12人をさしていることだ。

これによって、舞台には陪審員たちが話し合いを続ける一室に、法廷での証言、そこから導き出される過去の再現や、陪審員それぞれが自分の環境や信念に照らして、被告人やその夫の心理を解釈していく、正誤が判別としない憶測の場面もインサートされる。

その本来複雑なはずの展開が、谷の演出、向井登子の美術、南香織中山愛弓の照明ら、スタッフワークの的確な誘導によって、ひとつの混乱もなく届けられることに驚かされた。

しかも、脚本家・谷碧仁が描いた世界はこの舞台がいまここで起きていることにすら感じられるほど、あまりにもリアルだ。

ここには「親ガチャ」と呼ばれる、親を選んで生まれてくることができない子供が、親の経済力によって、生まれながらに人生の選択肢を狭められてしまうという、最早格差社会ではなく階級社会だと囁かれる日本の現実が色濃く影を落としている。百万人に1人しかいないかもしれない症状までが、簡単に検索できてしまうインターネットによる情報化社会故に、持つ必要のない不安が増幅される危険。

幸福と映えだけを競いあう写真投稿の一方で、匿名の嘆きや罵詈雑言に溢れるSNSの歪な発信に振り回される心理。こうあらねばならぬという強迫観念とワンオペ育児。それらすべてがいつしか被告の母親から一切の余裕を奪い、我が子への虐待に発展してしまう。

舞台から刻一刻と明らかになっていくその情景が、目をそらすことのできない緊迫感を生んでいく。

その被告が「有罪」か、情状酌量によって「無罪」か?を決しなければならない陪審員たちも、それぞれが年齢も性別も、置かれた環境も価値観も異なる、人の親なのだから、むしろ摩擦も議論も起きて当たり前だろう。

改めて振り返ると、10人の陪審員たちがすべて親子関係に大きな何かを抱えているというのは、演劇的でありすぎるかもしれないが、翻って何ひとつ問題のない親子がいるのか?と言えば、それもかなり考えにくい。

子供は親を選べないが、親だって子供を選べない訳で、全く「他人事」として考えていた事件が、いつしかそれぞれの内なる親子関係を刺激していくというのも、またリアルだと思う。

何より2時間強ノンストップの会話劇に接している間は、そんな疑問を差し挟む余地すらなく、ただ物語の先へ先へと意識が引っ張られていくのだ。

10人の陪審員が2人の若い夫婦の間に起きたできごとを、客観視できなくなるのと同じように、観ているこちらも舞台にシンクロしていく。まるで13人目の親であり、子であるような気持ちになる作品の求心力に圧倒された。

そんな12人からなる群像劇を演じると言うよりも生きたと感じられる俳優たちの力量が揃って高く、この優れた会話劇の根幹を支えている。

陪審員長のドロンズ石本が持っている陽性なものは、次第に緊迫していく作品のなかで、絶妙な息継ぎをさせてくれる効果になったし、陪審員2号の佐々木道成の常に周りを気遣う優しさが、誰の意見にも耳を傾けすぎてしまう優柔不断との表裏一体につながる様には、身につまされるものも多い。
全員がキーパーソンと言える作劇のなかでも、非常に大きな鍵を握る陪審員3号の小出恵介の噴出するエネルギーの凄まじさは、常に理路整然と事実に向き合おうとする陪審員4号の富田麻帆のキビキビとした演技と、強いコントラストを生む。

「偏見はないです」という言葉にこそ反応する、むしろ自分自身が「普通」に対するコンプレックスを抱えていることを、全くエキセントリックでなく表現した陪審員5号の太田将熙と、冒頭から少しも人の意見を聞かない姿勢で強烈なインパクトを与える陪審員6号の田中真琴の、怜悧な美貌に潜む感情は痛いほどだ。

どこにでもいる明るくざっくばらんな母親と見えていた陪審員7号の橘麦が、実は抱えているものをどこか突き放して露呈した真実味と、そもそもこの審議に一石を投じた陪審員8号の須賀貴匡の、膨大過ぎるほど膨大な台詞に心根を乗せ続けたインパクトが力強い。頑固一徹で一切聞く耳を持たない不遜さが、ドラマを十二分に波立たせた陪審員9号の佐瀬弘幸と、よく動く表情のなかに、次第に被告に気持ちが傾いていく陪審員10号の変化を的確に示した杉本有美

そして、被告の夫・朝倉道人の織部典成の、笑顔のなかにも忍び寄る無表情の表情と、被告の若い母親・朝倉楓の岡本夏美の、場面ごとに顔立ちまで違って見えるほどの表現力。

それら12人全ての俳優に全く穴がない座組みの見事さが、この自分の隣にあると感じさせられるドラマを導いている様は圧巻だった。

何よりも決して軽いとは言えないいくつものテーマから、自分自身の親子関係を顧みずにはいられない、長く考え続けるだろう心に刺さる舞台が、リアルであるのと同じだけの力を持って演劇であること。

スタッフワークとキャストが生み出した、劇空間としてのスペクタクルも手放していないことに感嘆する。

「有罪」か「無罪」か。この舞台を体感したとき、あなたならどちらに票を投ずるのか。きっと観た人の数だけ答えと理由が生まれるはずの、多くの人と語り合いたい舞台になっている。

(取材・文・撮影:橘涼香)

劇団時間制作第二十五回本公演「12人の淋しい親たち」

公演期間:2022年9月22日 (木) ~2022年10月2日 (日)
会場:東京芸術劇場 シアターウエスト

◆出演者
小出恵介
須賀貴匡
ドロンズ石本
富田麻帆
太田将熙
田中真琴
佐瀬弘幸
橘 麦
杉本有美
佐々木道成(劇団時間制作)
織部典成
岡本夏美
◆スタッフ
脚本・演出:谷碧仁
舞台監督:金安凌平
美術:向井登子
照明:南香織(LICHT-ER)
音響:佐藤こうじ(Sugar Sound)
演出助手:矢本翼子、千代麻央
音楽:三善雅己
衣装:小泉美都
ヘアメイク:美ヶ原美々
宣伝美術:圓岡淳
制作:MIMOZA

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