アメリカン・コミックの漫画家になりたいという夢と才能を持ちながら、あるトラウマによって一歩を踏み出すことができない青年と、彼を取り巻く人々との交流や別れを通して、誰のなかにも内なるヒーローがいることに気づいていく珠玉の人間ドラマ、ミュージカル『ヒーロー』が、日比谷のシアタークリエで上演中だ(3月2日まで)。
ミュージカル『ヒーロー』は、「October Sky─遠い空の向こうに」のミュージカル化を手掛けた脚本アーロン・ティーレンと作曲・作詞マイケル・マーラーコンビが手掛けた作品。
アメリカを代表するアイコンのひとつであるアメリカンコミックを媒介に、市井に生きる人々の日常にあるそれぞれの痛みや喜びが、互いに手を取り合うことによって、新たな未来に向かう様を丁寧に描いていく。
【STORY】
ウィスコンシン州ミルウォーキー。
漫画家志望のヒーロー・バトウスキー(有澤樟太郎)は父親のアル・バトウスキー(佐藤正宏)と二人暮らし。家計を支える為、昼は実家のコミックショップ、夜はバーで働いている。10年前の高校卒業時のある出来事がきっかけでトラウマを抱えたヒーローは、人生を前に進めることができなくなっている。そんなコミックショップはアルを父親のように慕うネイト(吉田⽇向/木村来士・Wキャスト)や、常連客のテッド(田村良太)、カイル(西郷豊)など、コミックオタクたちにとっての“シェルター”のような特別な場所でもあった。
ある日、ヒーローが働くバーに、いつものようにポジティブシンキングの塊である従兄弟で親友のカーク(寺西拓人/小野塚勇人・Wキャスト)がやってきて、賑やかに話していた折、ヒーローの高校時代のガールフレンド、ジェーン・フォスター(山下リオ/青山なぎさ・Wキャスト)が偶然店を訪ね、二人は10年ぶりに再会する。
この機を逃すな!とアルやカークに励まされたヒーローは、自分とカーク、ジェーンとその同僚で高校時代の同級生スーザン・シュミッティ(宮澤佐江)と4人で夕食を共にする。ここからヒーローの止まっていた人生の時計が再び動き始める。10年前の出来事によって別れたジェーンとの当時の誤解も解け、互いの気持ちが深まっていくなか、勇気を持つことができたヒーローは、日々日記として書き綴っていた自作の漫画を出版社に送ると、目を止めた編集者から契約の話が舞い込んだ。
だが、順風満帆の幸せな明日を掴もうとした刹那、不幸な出来事がヒーローを襲う。彼は再び心を閉ざし、人生を諦めようとしてしまうが……
2008年のアメリカ、ウィスコンシン州ミルウォーキーの物語……と説明されて、あぁなるほどと、時代の空気や土地の感覚が瞬時にわかる、という人はそれほど多くないのではないだろうか(もちろん良くご存じの方もいらっしゃるはずだが)。
更にアメリカンコミックショップの雰囲気、中でもこれはアメリカ映画や小説で頻繁に描かれる父と子の関わり、端的に言うなら「父親は息子が超えるべき最初で最大の壁である」という関係性が、頭では理解できても、肌感覚としてもうひとつ伝わらない部分はどうしてもある。
だが、このミュージカル『ヒーロー』の舞台に接していると、そうした異なる国の、文化や価値観が少しずつ違う人々の物語だ、という気持ちを全く覚えずにまるで隣人の物語を観るように作品に入っていくことができるのが、嬉しい驚きだった。
主人公のヒーローも、足の不自由な父親のアルも、恋人のジェーンも、従兄弟のカークも、そこに生きている人たちとしてスーッと心に沁みてくる。
それはこの作品の日本初演にあたって、脚本のアーロン・ティーレンと作曲・作詞のマイケル・マーラー、そして翻訳・訳詞・演出の上田一豪が綿密なミーティングを続け、日本の観客に伝わりやすいようにと構成を入れ替え、曲の書き直しを進め、作品が再構成されているからだ。
つまりこの舞台は日本初演であると同時に、新たなミュージカル『ヒーロー』の初演でもあって、この国を越えたクリエイターたちの真摯な姿勢が、「奇跡はすぐそこにある」という希望に満ちたテーマと、親子、恋人、友人の交流がもたらす人間ドラマの普遍性を抽出することに成功している。
だから「もしあの時別の行動をしていたら」或いは「していなかったら」という、神ならぬ身の人間が予知することが不可能だったはずのある出来事に対して、心に深い傷を負っている主人公とその父親、そして彼らに関わる登場人物一人ひとりにリアルなシンパシーを感じることができるのだ。
実際生きていて、後悔したことが一度もないなどという人はいないはずだし、傍目には眩しく羨やましい生活をしているように見えたとしても、真に幸福かどうかを他者が測ることはできない。
しかも情報があふれかえるネットがあって当たり前で、誰かが苦しいと訴えても、それで苦しいなんて贅沢だ私はもっと苦しい、などの声があがりがちの、心にゆとりを持つことがとても難しくなっている2025年のいま、あなたの隣に、あなたのすぐそばに奇跡はあるよ。空を飛び、海を駈けるスーパーヒーローでなくても、あなたの心にはあなたにしかないパワーがあるし、それを誰かと伝え合うことで世界は変わっていくよ。と静かに語るこのミュージカルが訴えてくるもの。
胸を打つその世界がなんと優しさに満ちていることか。
この作品を見つけ出し、アーロン・ティーレンとマイケル・マーラー、そして上田一豪を出合わせた関係者の慧眼、この全てこそがヒーローだと感じる。
二階建てのセットを基本として、主人公のヒーローが自分の周りで起こった出来事を書き続けている日記でありコミックを映し出す、美術の石原敬、照明の関口大和、映像の松澤延拓の連携も見事で、モノトーンとカラフルの振り幅も魅力的だ。
そのストレートに等身大の、と感じることができる登場人物たちに扮したキャストでは、やはり夢も才能も持ちながら、人生を諦観してしまっている主人公、ヒーロー・バトウスキーを演じた有澤樟太郎の持つ温かさと、ミュージカルスターとして階段を駆け上がっている豊かな才能が際立っている。
長身と甘いマスクと明るい個性で、作品を盛り上げる役どころを多く演じてきている人だが、そうした役柄でもどこかに必ずふとこぼれる真面目さや、微かな悲しみも表していた有澤が演じる、自らを「傍観者」と称するヒーローからは、常に口にしている諦めや苛立ちだけではない、見ないようにしているだけの渇望や、あるべき姿への憧れがきちんと見てとれる。
だからヒーローと名付けられた、思えばこの名前だけで相当なプレッシャーだろう彼の後ろ向きな姿に苛立つのではなく、この青年になんとか幸せになって欲しいと感じ声援を送りたくなるのは、有澤の繊細な演じぶりあってこそだ。
この愛すべき個性は最強で、歌唱力もますます充実。
観る度に成長を感じさせるミュージカル新世代を引っ張っていく一人になるだろう有澤の、更なる新境地が感じられたのは何より嬉しいことだった。
そんなヒーローの高校時代のガールフレンド、ジェーン・フォスターの山下リオは、まず時代感を巧みに出した中原幸子の衣裳や、井上京子のヘアメイクがピッタリで、ジェーンがヒーローと離れて過ごしてきた10年間を俯瞰することのできる、ある意味の割り切りのなかで、唯一割り切れなかったものがヒーローへの想いだったのだろうな、と感じるドライとウェのバランスが絶妙な演技が光る。
だからこそ再び心を閉ざしたヒーローに対する心根の深さにも説得力を与えるヒロイン像になった。
もう一人のジェーンの青山なぎさは、小柄でキュートというビジュアルからくるイメージが、10年を経て再会したヒーローが思わずもらす「全然変わっていない」という言葉がリップサービスではないことに納得がいく、ヒーローに一歩を踏み出させるジェーン像。
歌声の力強さが愛らしいビジュアルとのギャップの魅力にもなっていて、相手からの連絡を待ってしまう、つまりはもうこちらから連絡できないほど苦しんでいたジェーンもまた、ヒーローとの再会で大きな一歩を踏み出していることを感じさせた。
ヒーローの従兄弟、カークの寺西拓人は、人生を楽しむ達人であるカークが、常に後ろ向きのヒーローを構い続けるのは何故か?という、作品に明確には描かれていない、カークが抱く家族としてのヒーローへの深い愛情を感じさせる、明るさだけに終わらない造形が深い。
だからこそ父親のアルのことを「たった一人の家族」と口走ったヒーローの言葉に、どれほどカークが傷ついたかがストレートに伝わってきて胸苦しいほど。
歌唱もますます充実していて、この公演中に世の話題を独占した「timelesz project」で一躍時の人となった寺西だが、ミュージカルファンとしてひと言、言わせてもらえるなら「やっと世間が気づいたか!」という従前から大きな魅力の持ち主。
着々と足場を固めて来たミュージカル界でも、更なる活躍を見せてくれることを期待している。
Wキャストでカークを演じる小野塚勇人は、準備期間の短い緊急登板だったとは、言われなければわからなかっただろうと思うほど、弾ける明るさと賑やかさで作品にポップな香りを振りまいている。
記憶に新しい『この世界の片隅に』の水原哲役を引くまでもなく、柔軟な演技力の持ち主だが、このカークでは常に高いテンションで作品世界を盛り上げ続け、持ちナンバーも小野塚の個性によくあった。
この経験が彼をまたひとつ、次のステップに引き上げてくれることだろう。体当たりの熱演と頑張りに拍手を贈りたい。
ジェーンの同僚教師であり、高校時代の同級生でもあるスーザン・シュミッティの宮澤佐江は、人との関わりに極度に緊張してしまうスーザンの、敢えてテンパったと言いたい言動の数々を、思い切ったカリカチュアで演じきって笑いを誘う。
潔癖症でもあるのかな?という対応の数々をしていながら、カークのポジティブパワーとアルコールに押されて豹変していく様も実に弾けていて、二人がカラオケで歌う場面は楽曲、映像、照明をフル活用した演出もノリにノって楽しい。作品全体のスパイスになる熱演だった。
アルを慕ってコミックショップに居ついているネイトもWキャストで、吉田⽇向が14歳のネイトを頭のいいコミックオタクで、同世代の中では少し浮いているだろう存在として描き出しているのに対して、木村来士が可愛い弟分でありつつ、ヒーローに対して時に非常に本質的な疑問を突き付ける、二人のネイト像がそれぞれに魅力的。
終盤に向けて非常に重要な役柄を、個々のカラーを活かして演じていて面白い。
そのコミックショップを経営するヒーローの父アルの佐藤正宏は、飄々とした風貌で周りから慕われる店主であるアルが、口に出る言葉以上に息子のヒーローを愛し、才能を信じているからこその歯がゆさや、忸怩たる思いが伝わる演技で惹きつける。
それでいてこうした店を経営するに至る、本人もまたコミックオタクである一面が自然とにじみ出ることにも、ベテランの妙味を感じた。
常連客のテッドの田村良太は、近年性格俳優としての味わいを深めていて、このテッド役でもコミックオタクぶりを競い合いつつ、常にやりこめられている可笑しみを表現しているし、カイルの西郷豊の体格も性格も大きい役柄の造形との凸凹コンビ感が、コミックショップに更なる親しみを与えている。
また、ヒーローの送った原稿に「これぞ!」という才能を感じ、的確なアドバイスもするジョン・ティモンズの木暮真⼀郎は、ヒーローに、引いては物語全体に希望をもたらす役柄を印象的に演じているし、そのヒーローの原稿を預かる郵便局員の高倉理⼦の快活でキビキビとした動きが心地よい。
一方動きの一つひとつにタメの入るドッティの髙橋莉瑚の、台詞のないところでもきちんと放つ威圧感が絶妙で、非常に大事なアイテムである「ポテト」と共に、棒付きキャンディのあしらいの巧さでも笑わせる。つまり全員に演じ甲斐のある役柄が用意されているのも、作品の魅力を増していた。
何よりも前述したように、遠い彼方ではなく、あなたの隣に奇跡はある、そう信じさせてくれる温かい作品が、世界も日本も残念ながら殺伐としたものに取り巻かれている現代に上演される意義は大きい。
様々な色合いの楽曲も親しみやすく、観終わって自分の周りの誰かに少し優しくなれる、その優しさがまたその周りの誰かに広がっていく、そんな演劇が、ミュージカルが起こす奇跡を、信じる気持ちになれる舞台だった。
取材・文・撮影(青山・小野塚・吉田回):橘涼香
写真提供(山下・寺西・木村回):東宝演劇部
ミュージカル『ヒーロー』
公演期間:2025年2月6日 (木) 〜 2025年3月2日 (日)
会場:シアタークリエ
出演
有澤樟太郎 山下リオ/青山なぎさ(Wキャスト) 寺⻄拓⼈/小野塚勇人(Wキャスト)
宮澤佐江 吉田⽇向/木村来士(Wキャスト) 佐藤正宏 ほか
スタッフ
スタッフ
脚本:アーロン・ティーレン
作曲・作詞:マイケル・マーラー
翻訳・訳詞・演出:上田一豪