【ゲネプロレポート】「劇団時間制作」10周年公演『哀を腐せ』

「人間が見て見ぬふりをしている現実、感情と向き合う時間を制作する劇団」を旗頭に活動を続ける「劇団時間制作」10周年公演『哀を腐せ』が、池袋の東京芸術劇場シアターウエストで上演中だ(27日まで)。

劇団時間制作は主宰であり、脚本・演出を担う谷碧仁が2013年に立ち上げた劇団。
創立以来一貫して、いま社会に起きている問題をすくいあげ、他人事ではなく、自分事として、観る者に考えるきっかけを届ける作品を創り続けてきた。

そんな「劇団時間制作」が10周年にあたって上演する第一弾公演がこの『哀を腐せ』(アイヲクサセ)で、多くの犠牲者を生んだ一件のバス事故で結成された「被害者の会」の人々が、刑事裁判も民事裁判も望む形で終結したあと、終わったことによってはじまった対話から、腐る事のない哀みに目を向けざるを得なくなっていく様が描かれていく。

(※荒川きらら役の山口まゆさんが、体調不良により一定期間休演になりました。初日17日は一部演出変更による上演、18日19時~20日13時公演はやまうちせりなさん代役による上演となります。山口さんの一日も早いご回復をお祈りすると共に、ゲネプロレポートとして掲載いたします)

【STORY】

多くの犠牲者を生んだ一件のバス事故
刑事裁判も民事裁判も、被害者の会が望む形で終結した

しかし終わった事で始まった対話により
腐る事ない哀しみが襲い掛かる

解散か。存続か。それとも…
禁断の後日談が幕を開ける

‘‘哀しみ‘‘で繋がっていたはずだった

蝉しぐれではじまる舞台からまず感じたのは、『哀を腐せ』というタイトル自体から既に発っせられている途方もなく深いものが、舞台から溢れ出てくるという感覚だった。

上手に仏壇、中央にソファーのある居間、下手にリビングダイニングが見渡せる向井登子の美術は、「被害者の会」の人々が結審のあと、これまでとこれからを話し合う一室であり、倉本泰史小原ももこの照明、天野高志の音響、三善雅己の音楽、そして谷碧仁の演出によって、「被害者の会」を形成しているそれぞれの家族の家としても機能していく。

この演劇の想像力を激しく刺激する幕開きから、舞台は濃密で、緻密で、ここにいる人たちの数だけある、裁判では決して覆うことのできない、腐ることのない哀みが軋み、悲鳴をあげていく、或いは悲鳴すらあげられない慟哭となって、客席に突き刺さってくる。

それは、登場人物の関係性が舞台のあちらこちらで、時には重なり合い、ぶつかり合いながら語られる対話、言葉、叫びによって明確になっていくごとに深まっていくもので、あらゆる感情の蓋があたかもこじ開けられていくように感じられた。

ここにいる十人の登場人物たち、スキーツアーバスの転落事故によって、ある者は子供を失い、ある者は不治の障害を負い、ある者は家族構成の変化によって、思いがけず身内の人生を引き受ける責任に見舞われている。誰もが深い哀しみを抱えていて、自分を責めてもいる。なぜうちの家族だったのか、なぜ守ることができなかったのか、なぜツアーに行かせてしまったのか。彼らはせめてこの事故で負った痛みを、亡くなった、或いは障害を負った身内の無念をいくばくかでも晴らそうと、裁判で戦うことで団結していられた。

けれども、その目標がなくなった時、思いは少しずつ軋んでいく。例えとして適切でないかもしれないが、視力障害を負った人たちの間で、視力のあった時代を持つ人は、障害を持って生まれてきた人よりも、ものの色や形を記憶しているだけ幸せだ、と感じることがままあると聞く。もっと身近な話で言えば、いま金銭的に余裕がないにしても、借金に追われている人よりはましだ、とか、行きたいところに行けなくても、病に臥せっている人よりはましだ、という考え方、自らの不安や嘆きに、自分より更に困っている人を重ね合わせて折り合いをつけた経験は、おそらく誰にでもあるだろう。悲しいかな人間は「生きているだけで丸儲け」「朝が迎えられてなんて幸せなんだろう」と、足るを知る境地には、そう簡単にたどり着けるものではない。

だからこの『哀を腐せ』に登場する十人がいつしか、たとえ重い障害を負ったにしても、身内が生きている人に失った者の哀みはわからない、事故を風化させてはいけないなんて綺麗ごとで、事故現場に遭遇した自分たちこそが本当の被害者で、もうあの衝撃は忘れたいんだ、じゃあ何もできないままただ待つしかなかった家族の気持ちがわかるのか?と、次第に口論を重ねながら、それぞれの立場で少しづつすれ違っていくのも無理はない。

更には家族とひと口に言ってもその関わり方によって、哀みの色合いが違い、周りほどには嘆いていない自分に実は戸惑っていると言った、果てもない心の葛藤が口を開けていった時、彼らの思いがバラバラになっていかざるを得ないのも当然だろう。

そんな、時にはつぶやきで、時には怒号によって交わされる会話の切迫感を描き切る谷碧仁の脚本の凄みは、その上で十人の登場人物を決してひとつの記号、ドラマの為のひとつの役割に終わらせていないことだった。

こんな会はいらないと言っていた者が、実は最もこの会を必要としていたり、一見露悪的に振舞っていた者が芯のところで深く身内を愛していたり、優しさに見えていた行動がせめて自分がまだ優位だと思いたい故の感情だったりと、誰もが非常に複雑で、多面体の人物として舞台に生きている。

まさに息づいている。だからこそ、誰に感情移入するか、どこに最も深く心を動かされるかは、観た人の数だけあると思うし、その心に刺さったものが、終幕をどうとらえるかもまた千差万別に違いない。そしておそらく谷の意図もそこにあって、この舞台で何かの結論を届けようとしているのではなく、この舞台を受け留めて、観た者が考えるきっかけになることをこそ最上としている、「劇団時間制作」の真骨頂が感じられた。

そんな登場人物を演じる十名のキャストは、岡本夏美が一見虚無的に見える表情のなかに、澱のようにたまっている哀しみを印象深く。青柳尊哉が役の本音を表現していると思わせた最後に、さらに見せた意外な顔に真実を。安西慎太郎が非常に難しい役柄を、演技を越えていると思えるほどきめ細かく。

松田るかが思いをそのまま口にしているかに見えた、感情の起伏の奥にある愛情を。鬼頭典子が自分を責め続け負荷を負った家族を慮るあまり、無意識に家族を否定している愛ゆえの歪みを。杉本凌士が家族とすごす時間が短かったことへの負い目から、自分の感情に戸惑う様を。長内映里香が身内に起きたことに理由を求めずにはいられない強い言葉を発しながらも、ふと現れる役柄本来の優しさを。

山口まゆが厳しい状況下に置かれていつつ、それでも自分は一人前の大人だと証明したい葛藤を。佐々木道成が自分の家族に起きたことこそが、最も大きな不幸だと主張せずにはいられない深い傷を。太田将熙が「被害者の会」をリードしてきたこれまでと、これからへの複雑極まる立ち位置を。

と、それぞれが、途切れない熱量を持って役を生きている様に圧倒される。

そんな舞台に生きた十人が「被害者」というある種の幻想共同体から一歩を踏み出す、或いは踏み出さざるを得ないことに「どう生きていくか」という作品のテーマが横溢していると感じた。せめて彼らに「新しい朝」は難しいとしても、「今日」という時間を積み重ねていって欲しいと祈る思いになったのは、スタッフ、キャストの総力がこの舞台に注ぎこまれていたからこそだ。
果たして『哀は腐せ』られるのか。この作品を体感して、是非多くの人に考え、感じて欲しいと願う。

(文・撮影/橘涼香)

劇団時間制作10周年記念公演「哀を腐せ」

公演期間:2023年8月17日 (木) ~2023年8月27日 (日)
会場:東京芸術劇場 シアターウエスト

脚本・演出:谷碧仁

出演
岡本夏美
青柳尊哉
安西慎太郎
松田るか
鬼頭典子
杉本凌士
長内映里香
山口まゆ
佐々木道成

太田将熙

8月18日(金) ~8月20日(日):[山口まゆ]の代役[やまうちせりな]

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