
平野啓一郎の傑作小説を、瀬戸山美咲の上演台本、演出、ジェイソン・ハウランド作曲による新作オリジナルミュージカルとして世に問うミュージカル『ある男』が東京建物 Brillia HALLにて上演中だ(17日まで。のち、8月23日~24日広島・広島文化学園HBGホール、8月30日~8月31日愛知・東海市芸術劇場 大ホール、9月6日~7日福岡・福岡市民ホール大ホール、9月12日~15日大阪・SkyシアターMBSで上演)。

「ある男」は2018年に読売文学賞を受賞し、世界中で翻訳され読み継がれている平野啓一郎の長編小説。不慮の事故で夫を失った女性が、その夫の名前も経歴も全てが別人のものだったという衝撃の事実を知らされ、弁護士に調査を依頼することから様々な人間模様が浮かび上がる作品だ。
なぜ彼は別人として生きていたのか、社会的評価、戸籍、血筋、内面など、人を”その人”たらしめるものはなんなのか。
そんな根源的な問いかけを描いた作品初のオリジナルミュージカル版は、強力なスタッフ・キャストを得て、エンターティメントと文学の香りを両立した舞台を展開している。

【物語】
弁護士の城戸章良(浦井健治)は、忙しく仕事に追われるなかで、妻の香織(知念里奈)や、子供との時間が取れず、香織が不満と寂しさを募らせていることに気づきながらも、さしたる改善をはかろうとしない日々を過ごしていた。
そんな城戸の元にある日、谷口里枝(ソニン)から奇妙な調査依頼が持ち込まれる。里枝は愛する夫の大祐を不慮の事故で突然失い、悲しみに打ちひしがれるなか、長年絶縁状態だと聞かされていた大祐の兄・谷口恭一(上原理生)にようやく連絡を取るが、弔問に訪れた恭一から、遺影の人物は弟の谷口大祐(上川一哉)ではない、という衝撃の事実を告げられたと言うのだ。
愛した人の、名前も過去もすべてが偽りだったことに混乱する里枝の為「仮に彼を“X”と呼ぶことにします」と提案した城戸は調査に奔走する。温泉旅館の次男・谷口大祐を名乗っていた男、X(小池徹平)とはいったい誰なのか。
城戸は、調査のなかで協力を申し出た大祐の元恋人の後藤美涼(濱田めぐみ)と共にXを追う時間に没頭し、妻の香織との溝はますます深まっていく。
だが、やっと突き止めたXを知る、いまは収監中の戸籍ブローカー・小見浦憲男(鹿賀丈史)に翻弄されながらも、Xの人生を通して、人間の存在の根源とは何か、愛に過去は必要なのか?との問いに導かれる城戸は、ひたすらXの真の姿にたどり着くことにのめり込んでいく。
人生を丸ごと偽っても、普通の幸せを求め続けたX。
自らが得ている普通の幸せを意識もしていなかった城戸。
二人の人生が次元を超えて交錯した先に待つ、人を”その人”たらしめている真実とは…

おそらく多くの人がそうだったのではないかと思うが、平野啓一郎の「ある男」をミュージカル化するという第一報に接した時の印象は大きな驚きに満ちたものだった。
夫だと思っていた、或いは妻だと思っていた相手が全くの別人だった、という設定はミステリーや、サスペンス小説の世界では、かなり多くの著作が書かれている題材だと思う。だが平野啓一郎の「ある男」が描いているのは、もちろんそうした真相究明を追う、謎解き的な要素もあるものの、この国に長く根付いている、と言うよりも絶やすべきではないと固執している層が確実にいる、家父長制度に基づく、良いことも悪いことも個ではなく家の問題として考える風潮。自分の力ではどうにもならない、どの家に、誰の子供として生まれるか?によって否応なく定められた運命によるいわれなき偏見や差別。何よりも親から子へと確実につながっているDNAや、名前、この世に生を受けてから積み重ねた時間と、人と人が惹かれあい、育んだ時間のどちらが真実なのか。つまりは何を持って人は「人」となるのか?というあまりにも深淵なテーマが込められていて、音楽がドラマを運ぶ「ミュージカル」の表現形態と作品とが、正直ストレートにつながってこなかったのだ。

だが、今や再演を重ねるオリジナルミュージカルとして確立している、名匠黒澤明の手になる映画『生きる』のミュージカル化という、やはり一報から初演の幕を開けるまでには、いったいどんな作品が生まれ出るのだろう、という容易に想像がつかないからこそのいくばくかの危惧が、杞憂に終わったあの瞬間と同じ感動が、このミュージカル『ある男』の舞台からも立ち上っていたのは、大きな力をくれるものだった。特に中心を成しているのが音楽だ、と言って過言ではないほど多くのミュージカルナンバーによって紡がれているドラマが、あくまでも文学の香りを持っていること。ジェイソン・ハウランドの多彩で、それこそ原作世界からは想像できなかったポップな曲調も多い楽曲の魅力、音楽の力を存分に活かしたエンターティメント要素を加えつつ、言葉が深い意味を伝える台詞劇の趣も共にあるのが作品の味わいを深めている。


ここには、Xが谷口大祐として生きるまでの過程が単純ではないだけに、人物相関図を書きたくなる原作世界を尊重した部分と、そぎ落としたと言うよりは敢えて深くは触れなかったのだろうと思える部分、舞台化にあたって避けては通れないある種の取捨選択と再構築を非常に丁寧に施した上演台本・演出の瀬戸山美咲(公演プログラムによると、上演台本完成までの間に、原作者・平野啓一郎の助言もあったそうだ)。その上演台本と音楽に橋を架けた歌詞を書いた高橋知伽江。森を想起させる木の柱と樹木の年輪をイメージした舞台面にある円形の段差を基本に、木材を組み合わせて俳優たちがその場、その場で出現させる木枠に、メインキャストが対峙し、出入りすることによって、鏡やガラスに映る自分の顔が大きな意味を持つ、原作世界の骨子を際立たせた、まさに絶好調を感じさせる美術の石原敬。その仕事と連動している、重要な鍵になる写真、Xが描く絵、更に絶対に伝えたいワードを文字情報にもする松澤延拓の映像。全てを浮かび上がらせ、また陰影も与える照明の高見和義。更にそれらを繋いでいく振付の松田尚子と、オリジナルミュージカル創出の為のスタッフワークの結集が独創性に満ちている。
何よりも、自らのアイデンティティに向き合うそれぞれの役柄を演じるキャスト陣、よくぞ集めたなという贅沢で豪華な俳優たちが、ミュージカル『ある男』を昇華させた力が絶大だ。
※横スクロールすると写真が変わります。
Xを追い続ける弁護士・城戸章良の浦井健治は、基本的には彼の視点で進んで行く物語を、自分が出るべきところと引くべきところを絶妙な芝居勘で演じながら、ほぼ出ずっぱりの舞台を支えている。弁護士として忙しく働き、妻と小学校受験を控えた息子がいる家庭を持つ、順風満帆と言える生き方のなかで、実は自分のバックボーンと常に対峙してきた城戸が、どう考えても仕事の域を超えた執着をXに見せていくこと。ある意味、Xに魅入られていく側面もあるなかで、自分自身や家族を顧みていく様が顕著に表れることで、全体を俯瞰し、あくまでも強く主張することなく城戸という人物を浮かび上がらせることに成功している。特に彼の正義感の発露を台詞のないところの視線だけで見せたかと思うと、話に熱中した後藤美涼が自分の注文した飲み物を一気に飲み干した時の「(あの、それ、僕の……)」という声が聞こえて来そうな仕草と表情が、なんとも人間らしいのも浦井ならでは。原作や高い評価を受けた映画版より最も希望のある終わり方をする、城戸がXを追った先に見出し、ここから踏み出すのであろう未来、その選択に説得力を与える存在だった。
ある男・Xの小池徹平は、作品全体を通して現在の時間軸には全く登場しない役柄を、どこかに透明感を保ちながら演じていて魅了する。彼が何故別人として生きていたのか?という謎が物語を運んでいくなかで、違う次元にいるXと、次第に明らかになっていく誰かの回想として描かれる、過去の時間ではありながらも実際に生きて話し行動している幾多の時点でのXの実存感との表現が確かに違っていて、俳優・小池徹平の持つ高い自力が改めて鮮明になった。それでいて、他者の目や記憶から明らかになっていくXの場面、場面をバラバラに感じさせないのも素晴らしく、城戸との魂レベルでの闘いとも感じる「暗闇の中へ」の鋭い歌唱から一転、柔らかなナンバーも美しく歌い、素直に心を寄せられるXになっている。
Xが名乗っていた谷口大祐の元恋人・後藤美涼の濱田めぐみは、突然恋人が姿を消したことで抱えている心の傷を、「三勝四敗」のナンバーに象徴されるカラリと明るい振る舞いのなかに滲ませていて、城戸の調査に積極的に協力していく美涼の心理に説得力を与えている。原作の設定とは異なり、城戸にいつしか恋愛感情を抱いていくことはなく、あくまでも大祐がいまどこにいるのか、どうして自分の前から去ったのかに集中している役柄に濱田のパッションが加わって潔いし、何よりも美涼もまた前を向いて進んで行く「私の生きる道」のビッグナンバーが秀逸。作品がミュージカルになったからこその力強さと爽やかさを体現してくれていた。
Xを谷口大祐と信じて恋をし、家庭を持ったその時間が一気に足元から崩れ落ちたなかで真実を知ろうとする、ドラマが動き出す舵を切る谷口里枝のソニンは、ふつふつとたぎる熱量で多く演じてきた革命に身を投じる役柄や、クレバーで捌けていてチャーミングという都会的な役柄とは真反対の位置にいる、葛藤と懊悩のなかで立ちすくんでいる谷口里枝を、あくまでも静謐に演じている。近年役幅を大きく広げている人だが、Xにあくまでも人として向き合ったピュアな時間を、真実を知りただそれだけではすまなくなったと理解し、別の可能性も真っ直ぐに捉えながらも変わらない目線を向ける、里枝の強さを十二分に伝えていた。
谷口大祐の兄・恭一の上原理生は、作品のなかで最も当たり前にいるだろう、と感じさせる人物をポイントの出番で強く印象づけていく。血がつながっているから始末が悪い、というのは悲しいかなよくある話でもあって、そうした肉親だからこその目線や、絶縁した弟に子供がいれば必然的に発生してくる問題を、あけすけに口にするドライさが作品に現実感を与えた。城戸とは全く別なだけで、恭一のなかでの正義に従っていることがよくわかるし、非常に早い段階で恭一が歌う「別人」のナンバーを、持ち前の豊かな歌唱力でインパクト強く届けることで、ドラマを動かす重要な役割を果たしている。
その弟・谷口大祐の上川一哉は、作品のキーパーソン。人と関わる出番としては、ほぼ一場面に集約されていると言っても過言ではない役柄だが、それだけに彼が現在誰を名乗っていて、谷口大祐ではなくその名で呼んで欲しいと固執する心理と、そこから吹き上がった美涼への想いをそのひと場で噴出させる歌唱と芝居双方の熱量の高さが作品に必要な印象を残して充実。キャスティングを贅沢に感じさせる、上川の俳優としての成熟も光った。
城戸の妻・香織の知念里奈は、ただでさえ家族に向き合う時間が乏しいと感じていた夫が、ひとつの案件にのめり込んでいく不安と焦燥を、こちらもポイントの出番でよく表現している。特に谷口里枝と別次元で同じ思いを歌う「あなたが見えない」がソニンと共に楽曲の良さを十全に活かす好唱で、香織の心もとなさが里枝と共通している、というミュージカル版の読み解きに目を開かれるのは、ヒロイン経験の豊富な知念の存在感が寄与していて、作品を重ねるごとに貴重な役者になっていると感じさせて頼もしい。
そして、全体に贅沢なキャスティングのなかでも更に、Special Guest Starの格で出た戸籍ブローカーの小見浦憲男と、ボクシングジム会長の小菅を二役で演じる鹿賀丈史が、この生まれたてのオリジナルミュージカルの豊かさを象徴している。元々小見浦憲男を鹿賀が演じる、ホリプロ製作作品にしか叶えられないだろう禁じ手に近い起用法はため息ものだったが、その小見浦が「交換しましょ」というなんとも壮大なナンバーを引っさげて登場したのには度肝を抜かれた。ミュージカルとしての『ある男』のエンターティメント性を一気に高めただけでなく、その後の小見浦の食えなさ加減も絶妙で、笑顔のなかにある深遠な鋭さが突き刺さってくる。このインパクトがあまりにも大きいだけに、もうひと役Xに深く関わるボクシングジム会長の小菅はむしろ演じなくてもいいのでは?と思ったほどだったが、鹿賀丈史が別の人物を演じることを、髪色を変えるなどの手段を取らずむしろオープンに示したことで、法の基の善悪と、Xにとってどちらが真の意味で助けになった人物なのか?に想いが至る効果は驚くばかり。二つの役を互いに照射させる、大スター鹿賀の登板を仰いだ意味を感じさせた仕上がりになった。


また、「導き人」という、城戸がXを追う視線を導いていく存在であり、城戸の心象風景の具現化でもある役柄に碓井菜央と宮河愛一郎が扮し、高い力量のダンサーであるだけでなく、ミュージカル作品で演じることの経験値も高い二人の存在が、一見遠いところにあるように思うコンテンポラリーな振付とこの作品の色合いをつないでいるし、原作の語り手に近い役柄を短い場面で印象的に見せた俵和也や、それぞれメインキャストのカバーも務める青山瑠里、上條駿、工藤広夢、小島亜莉沙、咲良、増山航平、安福毅がよく演じ、実によく踊っている。味わい深い俳優として知られる安福休演の数日間(現在は本復して活躍中なのが嬉しい)、代役を立派に務めた大村真佑と、もう一人植山愛結のスウィングメンバーを含めて、全員が日本発のオリジナルミュージカルに貢献した力量を讃えたい。


総じて、平野啓一郎の描いた決してドラマを進める為の一面的な駒ではなく、一人ひとりのキャラクターが様々な事情や言葉にしない心情を抱えている、そんな人物たちの心の声を歌で届けることのできる「ミュージカル」の手法が、実は作品の深さによくあっていたこと。この作品をミュージカルにするという慧眼が生んだ新たなオリジナルミュージカルの船出に敬意を表し、多くの人にその航海を見届けて欲しい舞台になっている。
取材・文・撮影/橘涼香
公演概要
ミュージカル『ある男』
【原作】平野啓一郎
【音楽】ジェイソン・ハウランド
【脚本・演出】瀬戸山美咲
【歌詞】高橋知伽江
【出演】
城戸章良:浦井健治
ある男・X:小池徹平
後藤美涼:濱田めぐみ
谷口里枝:ソニン
谷口恭一:上原理生
谷口大祐:上川一哉
城戸香織:知念里奈
小見浦憲男/小菅:鹿賀丈史
碓井菜央 宮河愛一郎
青山瑠里、上條駿、工藤広夢、小島亜莉沙、咲良、俵和也、増山航平、安福毅
植山愛結、大村真佑(スウィング)
<東京公演>
2025年8月4日(月)~8月17日(日)東京建物 Brillia HALL(豊島区立芸術文化劇場)
<全国ツアー>
2025年8月23日(土)~ 8月24日(日)広島・広島文化学園HBGホール
2025年8月30日(土)~ 8月31日(日)愛知・東海市芸術劇場 大ホール
2025年9月6日(土)~ 9月7日(日)福岡・福岡市民ホール大ホール
2025年9月12日(金)~ 9月15日(月・祝)大阪・SkyシアターMBS