【公演レポート】二兎社の代表作『歌わせたい男たち』多様性の時代に訴えかける、“内心の自由”とは何か

2005年に第5回朝日舞台芸術賞グランプリに輝いた二兎社の代表作『歌わせたい男たち』が14年の時を経て、この令和の時代に公演されている。

ある都立高校の保健室を舞台に、教師たちが卒業式で「国歌斉唱」をすることについて議論を繰り広げるという、宗教や思想の自由について問題提起した今作は、この情勢下でやや“センシティブ”にも感じられる。しかし、だからこそ、今こそ目をそらさずに観るべき名作といえるだろう。

【STORY(公式引用)】

ミチルは、ある都立高校の音楽講師。“売れないシャンソン歌手”からカタギへの転身を果たしたばかりで、この仕事を何としてでもキープしたいという強い決意でいる。

今日はミチルが初めて迎える卒業式。ピアノが大の苦手なのに国歌や校歌などの伴奏を命じられたため、早朝から音楽室でピアノの稽古だ。だが緊張のせいか眩暈に襲われ、コンタクトレンズを片方落としてしまった。これでは伴奏するどころか歩くことさえままならない。

校長の与田はミチルを気遣いながらも、「君が代」をちゃんと弾かせることに異様なこだわりを見せる。しかも、ミチルに何か思惑があって伴奏したくないのではないかと疑っているようだ。ミチルは仲の良い社会科教師の拝島からメガネを借りて事態の打開をはかろうとする。しかし、養護教諭の按部から、拝島が「ゴチゴチの左翼」であると聞かされ、驚くのだった。今までみじんも考えたことのない問題の当事者にされてしまい、困惑するしかないミチルだが……。

立場の異なる様々な教師らの思惑が交錯する中、卒業式の時間は刻一刻と迫ってくる。

1981年から活動している歴史ある演劇ユニット・二兎社(主宰・永井愛)。その代表作の1つとされる『歌わせたい男たち』は、教育現場の「日の丸・君が代問題」に果敢に切り込んだ意欲作として、2005年に戸田恵子が主演を務めた初演以降も、2008年に再演、2016年にはロンドンでもリーディング公演されている。

国内での上演は14年ぶりとなるが、統一教会についての報道が白熱し、宗教や思想の自由について連日論じられる機会が増えた昨今、敢えて上演を決めたところもまた「考えるエンターテインメント」をモットーとする二兎社らしいといえる。

物語の舞台は2008年3月、とある都立高校の保健室。卒業式を数時間後に控え、生徒たちの巣立ちを祝福するように、黒板は折り紙で作られた飾りやペーパーフラワーで飾られている。

音楽講師として同校に中途採用されたミチル(演・キムラ緑子)がコーヒーをこぼしてしまうという、ほんの小さな事件からこの物語は始まる。

売れないシャンソン歌手を辞め、堅実な道を歩み始めたミチルだが、やはりどこかズレたところがあり、コーヒーでシミになった服を洗濯しながらシーツを服のようにまとったり、卒業式用の服に着替えたかと思ったら歌手時代の派手なドレスだったりと、天然かつ素っ頓狂な行動で周囲を振り回す。

歌は歌えてもピアノが苦手なミチルは、卒業式でピアノ伴奏をすることに緊張しており、今朝から眩暈が止まらないのだという。
それでコーヒーをこぼした上に、倒れた拍子にコンタクトレンズも片方失くしてしまったというから大変だ。

しかし本人よりも、青ざめた顔で右往左往するのは、校長の与田(演・相島一之)である。

片目がよく見えないまま、校歌や生徒が歌う『旅立ちの日に』の伴奏の練習をエアーピアノで始めるミチルに対し、執拗に国歌『君が代』はちゃんと弾けるのかを確認する与田。ミチルが十字架のネックレスをしているだけで「クリスチャンだから弾けないのでは」と疑ったり、『君が代』の成り立ちについて解説を始めたりと、どこか様子がおかしい。

その後のやりとりから、昨年の卒業式では、当時の音楽教師がクリスチャンで、『君が代』の演奏を直前に辞退し、CD音源で対処したのだということが分かる。CD音源があるならピアノが苦手な自分が弾かなくても……と一瞬目が輝いてしまうミチルだが、与田はどうしてもミチルに生伴奏をしてほしいようだ。彼には昨年の卒業式の様々な“トラウマ”があった。

二進も三進もいかないミチルは、自分と同じくらい視力が悪い社会科教師の拝島(演・山中崇)にメガネを借りたいと申し出る。しかし養護教師の按部(演・うらじぬの)は、彼は“ゴチゴチの左翼”だから無理だと言うのだ。

同郷のよしみで、これまで拝島とは親密な関係性を築いてきたミチルは驚き、そんなはずはない、自分の頼みであればきっと貸してしてくれるはずと主張するも、按部伝手に聞いた答えは「ノー」。親しいと思っていたはずの拝島にそんな事情があったとは知らず、ミチルはショックを受ける。

実は同校では昨年の卒業式で、前任の音楽教師や拝島を含む複数名の教師と、卒業生のほとんどが国歌斉唱で不起立を貫き、新聞沙汰になっていた。教育委員会から厳しい指導が入り、与田は校長として、今年こそは穏便に卒業式を済ませなければと躍起になっていたのだ。

ミチルがようやく事情を把握したのもつかの間、保健室に若手の英語教師・片桐(演・大窪人衛)が慌ててやってくる。

彼が言うには、国歌斉唱に反対して退職後の再雇用が取り消された元教師が、校門でビラを撒こうとしているというのだ。与田は何とかして止めさせなければと按部とともに慌てて出ていく。

与田たちがナーバスになる中、保健室に拝島が1人でやってくる。ミチルは彼が“ゴチゴチの左翼”であることも、妻子持ちであることすら、今日まで何も知らなかった。ミチルは拝島に国歌の伴奏を辞めてほしいと迫られ、困惑する。

物語の前半は、コンタクトを失くしても見えない方の目をつぶってなんとかしようとしたり、無理だと判断したら一転、気持ちを切り替えて拝島からメガネを借りようとしたりと、明るくあっけらかんとしたミチルが印象的だ。しかし、そんなミチルが後半は黙って考え込んでしまうほど、この問題は根深い。

与田は拝島のためだと彼を説得しようとする。このまま彼が今年も不起立を貫いたら、今後の仕事にも影響し、つまりは彼の家庭にも大きく影響してしまうのだという。

卒業式に出ずに駐車場の整備をしてはどうか、といった提案もしてみせるが、拝島はこれを断固拒否。ミチルに貸してはくれないそのメガネの奥の大きな瞳が、真っ直ぐに与田を見据えて、自分の意志を曲げるつもりはないと主張する。

劇中には“内心の自由”というワードが度々出てくる。日本国憲法第19条の「思想及び良心の自由」によって保障されている権利で、文字通り、心の中では何を思うのも、何を信じるのも自由であり、人の思想は国には縛られないということだ。与田は不起立の意志を曲げても、拝島の“内心の自由”は傷つかないと主張する。ただ、拝島の悲痛な表情を見ているうちに、本当にそうだろうか、本当に傷つくものはないのだろうか……と感じてしまった。

筆者のクラスメイトにも、国歌どころか校歌を歌うことも家庭から禁じられていた女生徒がいた。今、巷で議論されている“宗教二世”というやつだ。教師は彼女を無理やり歌わせようとはしなかったが、入学式でも卒業式でも、彼女が申し訳なさそうに下を向いていたのをよく覚えている。そのことを思い出すと、あれは彼女の親が悪いのか、歌うことがさも自然だという風潮の学校が、世の中が悪いのか……正直分からないし、結論が出る話ではないのではないかとも思う。

人はそれぞれ、大切にしているものが違う。ミチルはようやく掴んだ安定した職を手放したくない。拝島には自身の主義主張もあるが、養わなければならない家族もいる。与田にも、校長としての体面や、学校を守る責任がある。意見がかみ合わないのも当然のことなのだ。そんな中で、若手の教師である按部がどこか他人事だったり、片桐が自らの保身を図っていたりするのも、面白いポイントのように思えた。

また、歌がキーになる作品ということで、環境音のSE以外のBGMがほとんど使われておらず、自然な会話だけで時間が進んでいくのが、何故だが心地よく感じた。結論が出ないまま、刻一刻と迫る卒業式――。静まり返った劇場に、果たして最後に響き渡る楽曲は何なのか。ワンシチュエーションで、派手な何かが起きるわけではない。それでも、テンポのいい会話劇と、それぞれの人物の表情の移り変わりをぜひ楽しんでいただきたい。

文・写真:通崎千穂(SrotaStage)

二兎社公演46 『歌わせたい男たち』

作・演出:永井愛
出演:キムラ緑子 / 山中崇/ 大窪人衛 / うらじぬの / 相島一之

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